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ヨハネ福音書11章28~44
主イエスが着いたとき、マルタは悲しみをこらえて気丈に振る舞っています。
しかし、マリアは、取り乱して泣きます。
イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11:32)と言います。
二人の言葉は、まったく同じです。しかし、主イエスに向かう二人の態度は、ずいぶん違います。
人を絶望の淵に突き落とす「死の力」に、主イエスは憤って、墓に向かいます。
マルタの言葉、「四日もたっていますから、もうにおいます」(11:39)には、「だから無駄です。」という思いが隠されています。
しかし、主イエスは「出て来なさい」(11:43)と大声で叫ばれます。
主イエスは、「死の力」を打ち破る人だ。
打ちのめされ、望みを失ってしまうそのとき、ご自分が墓から復活されたように、わたしたちを「死の力」から解き放ってくださる。
ヨハネ福音書は、そう語っています。
ラザロを覆っている「布と覆い」は、わたしたちを支配する「死の力」を象徴しています。
「ほどいてやって、行かせなさい」(11:44)
わたしたちは、まるで墓の中にいるように、人の思惑や世の圧迫に閉じ込められている。
無力さを感じて、絶望することが日々あります。
しかし、そんな「死の力」から、解放されるのです。
ボンヘッファーというドイツの牧師で、神学者がいました。
ナチス・ドイツの時代にヒトラーに抵抗し2年間獄中にいて、戦争が終わる3週間前に絞首刑にされましたが、最後の言葉が残されています。
「これがいよいよ最後です。しかし、またこれが始まりです。」
主イエスが十字架にかかる前に、わたしが十字架にかかって死ぬことによって、神の栄光が現れる、神が働いておられることがはっきり分かるようになると言われたのと、まるで似ています。
無惨に殺され、悪の力の前に敗北したかのように見えるなかで、ボンヘッファーが残した言葉に動かされて、世界の教会の戦後の歩みが始まったのです。
もう絶望だとしかいえない中で、思いがけない仕方で神は働かれるのです。
「墓から出て来なさい。」という呼びかけに応え、新たな命を受けて歩み出しましょう。
(2015年6月14日)
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