マタイ福音書6章9~15
「必要な糧を今日与えてください。」(6:11)
「糧」はギリシア語ではアルトスで、粉を混ぜ合わせるという言葉から来ています。
「五つのパンと二匹の魚」(14章)、
「わたしが命のパンである。」(ヨハネ6:35)
この「パン」がアルトスです。
日本風に言えば、「おにぎり」かも知れません。
本当に粗末な食べ物で、大勢の人々が満たされたのです。
「必要な」とか「日用の」と訳されているのは、「これから来る」という意味の言葉です。
この祈りを朝祈るのであれば、今日のパンになります。
夜、寝る前に祈るのであれば、明日のパンになります。
食べ物がないなかで、神様、次のパンをどうか与えてください、という切迫した祈りです。
主イエスが目の前にしておられたのは、その日の食べ物に事欠くような、貧しい人たちだったのです。
出エジプト記16章に、荒野の記事が出てきます。
エジプトの地で奴隷であった人々が、約束の地に向かって旅立った。
ところが、荒野で人々がモーセを責めます。
「このままでは飢え死にしてしまう。こんなことならエジプトにいる方が良かった。わたしたちは奴隷だったが、腹一杯食べていた。」
そこでモーセが祈ったところ、マナを与えられた。
たくさん拾って来ようとする人たちがいたが、次の日には臭くなっていた。
先々の分まで蓄えて、これで何の心配もないという態度ではなく、その日のパンで満足することを、神は求められたのです。
ここで忘れてならないのは、
「わたしたちに」(6:11)という言葉です。
狭い意味では主イエスの前にいた弟子たちであり、主イエスに従う人たちです。
でも、
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。・・・父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ・・・」(5:44~45)という言葉からすれば、憎らしいあの人を含んでいるのです。
祈るとき、わたしたちの姿が露わにされます。
「わたしたちに」と祈りながら、誰かを除け者にすることなど許されないところに導かれます。
主の祈りは、身勝手な祈りをしていないかと、姿勢を正す鏡のような働きを持っているのです。
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