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手を取って起こす

マルコ福音書1章29~39

「イエスがそばに行き、手を取って起こされると」(1:31)

「起こす」は、「復活」につながる言葉です。わたしたちは、まるで死んだ者のように目的を見失って生きている。
そういう死者の中から、神によって起こされ、生きた者とされる。

主イエスは、熱病がうつる危険をおかしてそばに行き、手を取って起こされた。
死者の中から真の命へと呼び起こしたという、含みのある表現です。




「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。」(1:34)

勝手な噂が広がったら、大切なことを見失うからです。
病人が癒される、空腹が満たされる、渇きが癒される、そういう力ある業をなさる方が来られた。
そのしるしによって、いま何が起こっているか悟りなさいと、聖書は語ります。


「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。(1:35)

大勢の中で大騒ぎしていると、自分を見失い間違った方向に進んでしまうことがあります。
自分が今やろうとしていることは間違っていないか、見当外れのことを願っていないかと振り返る、これからどうするのが神に従う道か、一人静まって祈る、そういう祈りのときをお持ちになったのです。

祈りには、よほど用心しないと、自分勝手な思い込みを確信する、そういう怖い面があります。
しっかり祈ったから癒されたと考えるのは、間違っています。
「主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。」(エレミヤ書17:14)
これに尽きています。


シモンが「みんなが捜しています」(1: 37)と言います。
先生、これでうまくいきます。
やった!という感じです。
早く家に帰って、行列している人たちを癒やしてくださいと願ったのです。
しかし、主イエスは、思いがけないことを言われます。
人々は、偉大な人が現れたと言って大騒ぎしているが、このまま人々の期待に応え続けることはできない、「近くのほかの町や村へ行こう。」(1:38)



わたしたちは、熱病でないにしても、重荷や課題を背負って生きています。
苦しみや誤解の中にあるかもしれません。病気より、もっと辛いことがあります。
そんなわたしたちに、主イエスが近寄って、手を取って起こしてくださる。
気落ちし絶望しているわたしたちに命の力を注いで、立ち上がらせてくださる。

病気が癒やされるよりも驚くべきことが、わたしたちに起こるのです。
(2016年7月3日)


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