マルコ福音書1章21~28
「安息日に会堂に入って」(1:21)主イエスが活動を始められたのは、ユダヤ教の会堂シナゴーグでした。
「カファルナウム」は、ガリラヤ湖の北方の国境の村です。
主イエスは、エルサレムではなくて、どうしてガリラヤの漁村で、安息日に会堂で教え始められたのでしょうか。
「安息日」には二つの意味があります。(出エジプト記20章、申命記5章)
一つは、神の創造の業を覚え、すべての命が造られ祝福されたことを覚えて、感謝を捧げる日です。
もう一つは、エジプトで奴隷であった民が導き出されたことを想い起こして感謝を捧げ、共に喜ぶ日です。
一方わたしたちは、主イエスが死者の中から起こされた日、十字架と復活を覚えて、主の日を守るのです。
「この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。」(1:23)
心の安定を欠く人、発作を起こす病人を、古代の人は「汚れた霊に取りつかれた」と考えました。
重い皮膚病の人や汚れた霊に取りつかれた人は、会堂に入ることを禁じられました。
神の救いが分け与えられるはずの会堂で排除がおこなわれ、律法が差別の道具とされたのです。
それを、主イエスは打ち砕かれました。
病人を締め出すような会堂はほんとうに神を礼拝する場所か、安息日は何のためにあるのか、と問われたのです。
「正体は分かっている。神の聖者だ。」(1:24)
汚れた霊に取りつかれた男の叫びは、真実を見抜いた言葉です。
そして、わたしたちに問いかけています。
あなたはどう思うかと。
ヨハネ福音書に何度も出て来ました。
人々は主イエスの不思議な業を見て追いかけるが、主イエスがどういうお方かを理解しようとしない。
主イエスは、わたしには何の希望もないという病人に希望を与え、もう一度神に依り頼んで歩んでいこうという気持ちを起こさせる。
そういう救いをもたらしてくださった。
病気であっても、神を見失わないで歩んでいこうという希望へ導かれるのです。
「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。」(1:27)
主イエスは、律法に縛られることなく、人間の姿をありのままにごらんになりました。
病気の人が排除され、障がいをもつ人が社会の隅に追いやられている。
これはおかしい、神はその人たちと共におられるのだと、ご自分の命をかけて語られた。
そういう発言が祭司や律法学者の怒りをかい、死を招くことになったのです。
(2016年6月26日)
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