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わたしについて来なさい

マルコ福音書1章16~20
2組の兄弟が主イエスに招かれ、弟子とされる場面です。
マルコ福音書は驚くほど簡潔です。

シモンとアンデレは、「すぐに網を捨てて従った。」(1:18)
「網」とは、食べていくための道具、仕事です。
その大切な網を捨てた。

ヤコブとヨハネは、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(1:20)
「父と雇い人」は、家族をはじめ大切にしてきたものを象徴しています。



わたしたちは、たくさんのものを抱え込んで生きています。
そんなわたしたちに、主イエスは「わたしについて来なさい。」(1:17)と言われます。
「ここへ」と呼び寄せる言葉に続いて、「わたしの後ろに」という言葉が置かれています。
「ここへ、わたしの後ろに」と招かれるのです。
主イエスは、ただひたすら神の意志に従って、神の愛を伝えようとされました。
のけ者にされている人、罪人というレッテルを貼られている人、何の値打ちもないと差別されている人、そんな人たちのところに行って、あなたは神の子だ、大切な人だと言われた。
その主イエスの後について行く。頑張って、一生懸命修業して、何とかやり遂げなさい、というのではありません。主イエスの招きは、わたしたちを解放します。
福音書で「漁」は、「網が破れるほどのおびただしい収穫が与えられる」というイメージで使われます。
自分の力で何とかしようとして一晩中働いても、何の収穫も得られず、くたびれるだけだった。
ところが、主イエスの言葉に従って網をおろすと、おびただしい収穫が得られた。
主イエスに従うとは、究極のところ、十字架の主イエスに従うことです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8:34)
わたしたちの力では、とうてい出来る事ではありません。
しかし、「ここへ、わたしの後ろに」と招かれ、つまずき迷いながらついて行く。
そこで十字架の愛に触れる。神がその独り子を十字架につけて、わたしたちの贖いとしてくださった。



「贖い」とは、奴隷となっている人を買い戻して、自由な民とすることです。
御子の命を代価にして、罪の奴隷であったわたしたちを贖ってくださったのです。
弟子たちは、主イエスから「わたしについて来なさい。」(1:17)と招かれ、すぐに従いました。
つまずきながら従い続けたのです。
この不思議が、わたしたちにも起こります。
招かれた日のことを思い起こしながら、主に従って参りましょう。
(2016年6月12日)



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