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空の鳥を見よ、野の花を見よ

マタイ福音書6章25~34

「野の花」(6:28)は、英語の聖書ではリリー、文語訳では「野の百合」です。

しかし、これは名前も知れぬ草の花です。
厄介者扱いされ、わずか一日で命を終える、名もない花でさえ、というのです。



「空の鳥」(6:26)と聞いて、美しい野鳥を思い浮かべる方が多いことでしょう。

でもルカ福音書では、「からす」(ルカ12:24)とされています。
からすは動物の死骸をついばむことから、うとんじられる鳥です。

この話は、ガリラヤの湖のほとりで、貧しい人たちに向かって語られました。

あなたがたは、からすや雑草のように、何の値打ちもないという扱いを受けている。
しかし、そんなあなたがたを神様は大切になさる、と言われたのです。


「思い悩む」(メリムナオー)という言葉が、繰り返されています。

これは、心配ごと、気がかりなことで心がとりこにされることを言います。
「茨の中に蒔かれた種」は、「世の思い煩い(メリムナ)や富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない」(13:22)。

思い煩いや富の誘惑のために、主を見失うというのです。

「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(6:25)

この「命」はギリシア語でプシュケー、ヘブライ語の「命の息」とつながっています。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

のど、息、呼吸から命、魂という意味になり、神から命の息を吹き込まれた者としての人間を指す言葉として使われます。

16章にも出て来ます。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命(プシュケー)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」
(16:24~26)

富を築く、成功する、名誉を得る、そんなものを得ようとして思い悩むな。
こうして、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(6:33)につながります。

ギリシア語で「神の国」はバシレイア、「神の支配」です。
「神の義」はディカイオスネーです。

旧約聖書でこれに相当するのは、ミシュパートとツェダカーで「正義と恵みの御業」と訳されます。

ミシュパートは、「裁き」、歪みを正して公正な姿に戻すことを意味します。
ここから、「神の支配」、「神の国」につながります。

ツェダカーは、神がご自分の約束をどこまでも守って、背き続ける人間を見捨てず、何とかして救おうとされる愛、これが「神の義」、「恵みの御業」です。



神は何を求めておられるか。
公平と公正が回復されること、弱い者が守られることだ。
神の国と神の義を求めて生きなさい、と招いておられるのです。
(2018年7月22日)




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