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罪を赦す

マルコ福音書2章1~12
「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」(2:3~2:4)

有力者なら、一歩譲ったはずです。
主イエスの教えを聞きながら、病人に道を譲ろうとしない。とても皮肉なことです。



一生懸命な四人は、屋根をはがして病人を吊り下ろします。

「その人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(2:5)

この言葉を聞いた律法学者は、考えます。

「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(2:7)

この考えは、何ひとつ間違っていません。
しかし、中風の人に対する優しい気持ちやいたわりがありません。

「神を冒涜している。」(2:7)とは、恐ろしい言葉です。

「冒涜の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す。」(レビ記24章14)

神を冒瀆する言葉を聞いた者は、その人を石で打ち殺す責任がある。
見過ごしてはならない。
「神を冒涜している。」は、そういう言葉です。


中風の人が群衆に阻まれた話は、ザアカイに似ています。
「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。」(ルカ19:3)
そこで、いちじく桑の木に登った。
この中風の人も軽んじられ、道を空けてもらえなかったのです。

主イエスが癒やされたのは、ここまでどんな人でしょう。

汚れた霊にとりつかれた人。
シモンのしゅうとめ、娘の嫁ぎ先に身を寄せて肩身の狭い思いをしていた。
重い皮膚病の人、「わたしは汚れています。」と叫ばないと人前に出ることが出来なかった。

道を空けてもらえなかった中風の人。
そういう人が癒されています。

ですから、単に病人が癒されたという話ではありません。
この中風の人も体が不自由になって、まわりの人から面倒をみてもらわないといけない。
きっと情けない思いをしていたのです。
罪を赦されない限り、この病気は治らない。
そう思って、主イエスのもとに来たのです。



新約聖書で「罪」とは、「的外れ」です。
律法学者の考えは、間違っていません。
「これは、神を冒涜する言葉だ。罪を赦すことなど、人間に出来ることではない。」

でも、的外れの一生懸命さが、人を傷つけます。
わたしたちも、「的外れの一生懸命さ」に陥らないようにしたいものです。
(2016年7月24日)


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