マルコ福音書2章13~17
ローマは、税金の徴収を地域ごとに請け負わせました。
徴税人は、仲間から絞り取った金で私腹を肥やしている、ローマの犬だと蔑まれたのです。
この短い話に、「徴税人や罪人」が3回繰り返されます。
ここでの「罪人」は、「罪人」というレッテルを貼られた人です。
つまり、安息日に会堂で礼拝を守らない、施しをしない、祈りをしない者を蔑んだ言い方です。
どうしてあんな罰当たりな奴らと付き合うのか、とファリサイ派の人たちが弟子たちをつかまえて咎めているのです。
これを聞いた主イエスが言います。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(2:17)
これは、皮肉を言っているのです。
わたしは、ご立派な方々を招くためではなく、「罪人」とされている人を招くために来た。
自分は立派だ、罪などないと思っている人は、お招きする必要などないでしょう、という皮肉です。
「ファリサイ派」は、「分離する」という意味の言葉から来ています。
律法を守って、正しく生きようと努力する真面目人間に対する、あだ名です。
律法を守らない者は罪人である、罪人と一緒にいると汚れる、だからそういう人とは付き合わない。
これが、ファリサイ派の考え方です。
熱心に正しさを求める時、人を傷つけることが、ファリサイ派の姿に表れています。
わたしたちも、ファリサイ派の人たちのように振る舞うことがあります。
あんな風になってはいけない、あんな人と付き合ったらいけないなどと言うことがあります。
真面目に生きようとして、弱い人を見下す、そういう落とし穴があるのです。
今、互いに助け合い、支えあって生きることを、馬鹿にする人が増えています。
しかし、自分の幸せだけを願う時、常に不満が募り、決して幸せにはなれません。
わたしたちは人と手を取り合って生きる時に初めて、生きる喜びに出会えるのです。
共に喜び、共に悲しむなかで、喜びをもって生きることができるのです。
徴税人レビをお招きになったように、「わたしに従いなさい」(2:14)と、主は今もわたしたちを招いてくださっています。
「わたしが来たのは、・・・罪人を招くためである。」(2:17)とおっしゃる、主の招きに応えて歩みましょう。
PR