マルコ福音書2章18~22
「断食」は、死者を悼むとか敗戦を嘆くために、また罪の赦しをこうしるしとして、おこなわれました。
レビ記で定められている断食は、年に一度です。
ところが、熱心な宗教心を表すものとして、主イエスの時代には、ファリサイ派、エッセネ派、バプテスマのヨハネの弟子たちが、週2回、月曜と木曜に断食していました。
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(2:18)
わたしたちが断食しているときに、どうしてあなたの弟子たちは宴会などして騒いでいるのか。
真剣さが足りない、あなたの教え自体が緩んでいると非難し、とがめているのです。
それに対して、主イエスがなんと言われたか。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。」(2:19)
今、わたしと一緒にいることは、婚礼と同じぐらい嬉しいことだ。婚礼の客が断食などするものか、と痛烈な皮肉で返しています。
「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(2:20)
教会はこの言葉を、主イエスが十字架にかかったあとには、断食せよと言われたと受け取りました。
ですから、ギリシア正教会やカトリック教会には、断食の習慣があります。
でも、これは皮肉で言っているのです。
あなたがたは罪を悔いているわけではなく、自分の信仰深さを誇っているだけではないか。
わたしの弟子たちも、悲しみにあふれて断食するときが来ることだろう。
ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りが対比されている記事が、ルカ18章にあります。
正しさや熱心さを求めて断食する必要はありません。
主イエスがわたしたちのために死んでくださったことを感謝し、命の言葉を受け取りましょう。
今日は、平和聖日です。
戦時下の教会はどんな風だったか、7月に地区女性部の集会で、日本メソヂスト小倉教会(現在の小倉東篠崎教会)のケースを取り上げました。
礼拝において宮城遙拝し「君が代」を歌うことは、戦時下で強制されたからと思う人が多いのです。
しかし、すでに大正時代から、強制されてではなく、すすんで行われていました。
また、神社参拝は苦い経験です。
日本は、台湾、朝鮮、満洲など支配地域に次々と神社を建て、参拝を命じました。
抵抗するミッションスクールは取りつぶされ、責任者は投獄され、多数の獄死者が出ました。
神社参拝が、国家権力に従うかどうかの踏み絵とされたことを覚えたいと思います。
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