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安息日の主

マルコ福音書2章23~28

安息日の意味は、出エジプト記20章と申命記5章に書かれています。
神の創造の業を覚えてということと、エジプトの地で奴隷であったことを覚えてという二つです。

人間は貪欲です。
周囲の誰彼を休まず働かせて、利益を得ようとします。

そんなわたしたちに、7日目ごとに休息し、神に心を向けて過ごすよう命じられます。



安息日の掟には、貪欲に陥らないよう人間を守るという意味が隠されています。

今日のダビデの話は、王になる以前の話です。
サウル王は、次々と武勲を立てるダビデによって王座を奪われるのではないかと疑うようになります。
王から命を狙われ、食べる物もない中で、ダビデはノブの聖所に逃げ込みます。
命からがら逃げている時に、ダビデは祭司しか食べてはならない聖所のパンを安息日に食べます。
この有名な話を知らないのかと、主イエスは痛烈に皮肉を言っているのです。

「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」(2:23)

十人を超える人が麦の穂を摘んだら大変ですが、それ自体は咎められていません。
不思議ですが、これには根拠があるのです。

「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。 隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申命記23:25~26)

手で摘むぐらいなら、大目に見てやりなさいというのです。
落ち穂拾いの規定もあります。

「収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。」(レビ記23:22)

困っている人がいるはずだから、落ち穂はそのまま残しておきなさいというのです。

ここでは、他人の畑で麦の穂を摘んだことではなく、安息日に働いたとして咎めています。
安息日の意味を見失って、規則を守ることで人を縛ろうとする姿勢を、主イエスが真っ正面から批判しておられるのです。



日本では数十年前まで、住み込みの奉公人は盆と正月しか休みがなく、朝から晩まで働くのが当たり前でした。

7日ごとに家の者も雇い人も奴隷も家畜も休ませなさい、休みなしで働かせてはならないという安息日の掟は、弱い立場の人を守る掟です。
わたしたちが、際限ない貪欲に落ち込まないようにとの掟です。

安息日は、人間を守るために神が定めてくださったものなのに、人を縛り付ける掟にしてしまったと、主イエスは厳しく批判なさいます。

一人ひとりが与えられた命を、御心に沿うように用いる。
与えられている時間や能力を独り占めしないで、隣り人のために用いる、これこそ神の望まれることです。
(2016年8月14日)




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