マルコ福音書3章1~12
「片手の萎えた」(3:2)は、腕が「乾いてしなびた」という表現です。
この人は、神から罰を受けたとされて、会堂の隅で小さくなっていたことでしょう。
「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」(3:2)
彼らに向かって、主イエスが言葉を発します。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(3:4)
あなたがたは、わたしが律法を破るのではないかと、目を光らせている。
わたしがあの男を癒やしたら、すぐに捕まえて付き出そうとしている。
それは善を行うことなのか。
片手の萎えた人を癒やすことが、悪を行うこと、安息日の律法に違反するというのか。
わたしを訴えて、殺そうとさえ思っているあなたがたが、人を救おうとするわたしを責めるのか。
あなたがたはわたしを憎んでいる、それが神の御旨にそうことか。
この人がどんなに苦しんできたか、あなたがたは少しでも思いやったことがあるのか。
目の前に苦しんでいる人がいるなら、その人を癒し、助ける、それは神の御心ではないか。
それなのに、安息日にはこれをしてはならない、あれをしてはならないと言って何もしない。
それが神の御心に沿うことか。
目の前の人の苦しみに、心動かされることがあっていいのではないか。
これは、自分たちは真面目に律法を守ってきた、自分たちをおいて救いに与る者などいないと考える者への、主イエスの痛烈な批判です。
旧約聖書では、来たるべき時には、すべての民がエルサレムに集まるとされています。
ところがマルコ福音書は、「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。」(3:7)と記します。
復活の場面でも、ガリラヤが強調されます。
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。・・・あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16:6~7)
エルサレムではなくてガリラヤ、救いから遠いとされた人々、片隅に追いやられた人々が、
「真ん中に立ちなさい。」(3:3)
と呼びかけられ、あなたこそ神の国に入るとされるのです。
主イエスの癒しは、律法の掟に縛られている者を解放し、踏みつけられている人、「罪人」とされている人に、あなたこそ神に愛されていると呼びかける業です。
神の愛の中にいる、その喜びをもって、人に仕えることが出来るのです。
あなたの弱ってしまった足腰と腕を、しっかり支えよう。
「真ん中に立ちなさい。」と、わたしたちも呼びかけられているのです。
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