マルコ福音書3章13~19
主イエスが
「山に登って」(3:13)、
「十二人」(3:14)を選ぶ話は、新しい神の民がここから始まると語っています。
十二人を選んだ目的が、三つあげられています。
「自分のそばに置くため」(3:14)
主イエスがどのように語り、どのように人々を愛し、どのように死なれたか、どのように死の力と悪の力を粉砕したか、それを見届けさせるために十二人をそばに置かれたのです。
「派遣して宣教させ」(3:14)
「派遣する」は、「遣わす」という言葉に由来しています。
使者として王の言葉をそのまま伝えるという言葉で、預言者についても使われます。
「宣教する」は、「宣言する」につながります。
「この人を通して神の支配は実現した。この方は、わたしの主である。」と宣言する。
十二人は、主イエスの言葉を伝えるために選ばれたのです。
「悪霊を追い出す権能を持たせる」(3:15)
福音書で「悪霊を追い出す」は、ほとんどが病気を癒すことです。
信仰が足りないから病気が癒やされないと考えるのは、間違っています。
「御心ならば」(1:41)と考えるべきです。
ここで語られているのは、人間の目にとうてい無理と思われることも、神は実現なさるということです。
現代の「悪霊」は、平和を脅かす力、あるいは差別を生み出す力かもしれません。
与えられた場で、それぞれにふさわしいやり方で、目の前にある悪霊と闘うことが、わたしたちに使命として与えられているのです。
「シモンにはペトロという名を付けられた。」(3:16)
ギリシア風の名前を持つシモンに、主イエスが「ケファ」という名を付けました。
「ケファ」はアラム語で「岩」、「ペトロ」はそのギリシア語訳です。
十二人のうち実に半数が、外国風の名前です。
それほどガリラヤは、ギリシア・ローマの影響を受けていたのです。
十二人は、律法学者でも信仰深い者でもなく、漁師、徴税人、熱心党といった雑多で、一癖も二癖もある人たちでした。
そういう欠点だらけの者たちを、主イエスはそのまま受け入れ、ご自分の言葉を託して遣わされたのです。
ですから、わたしのようなみっともない者が主の言葉を伝えることなど出来ません。
もう少し立派になったら・・・と考えるのは、間違いなのです。
あなたが欠点だらけなのは、よく分かっている。
だけど、そのままでいい。
わたしが選んだのだ。
そう言われるのです。
主の選びに与るとは、そういうことです。
わたしたちも、今、主イエスの弟子として、世に遣わされているのです。
(2016年8月28日)
ホームページに戻る
PR