マルコ福音書3章20~35
律法学者たちとのやりとりで、
「ベルゼブル」(3:22)という悪霊が出て来ます。
人々はこの悪霊の名を聞いて、預言者エリヤに叱責された王アハズヤ(列王記1章)を思い出したことでしょう。
神の力によって癒しの業をおこなっていることは、すぐ分かるはずだ。
それなのに、どうして悪霊の力で悪霊を追い出しているなどと言うのか。
あなたがたは、神から遠く離れてしまっている。こう叱責されたのです。
「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(3:29)
この言葉は長いあいだ、聖霊を冒涜してはならないと理解されてきました。
しかし、それは間違った理解です。
神の救いの御手、神の救いの働きを軽んじて拒絶する者がいる。
せっかく神が救ってやろうとしても、その救いの業を受け入れなければ、神の救いの業は届かない。残念なことだ、と言われたのです。
身内の人たちが「取り押さえに来た」(3:21)という言葉は、説得しに来たとか、迎えに来たという、なま易しいものではありません。
力ずくで無理矢理連れて行くという言葉で、受難の記事では「捕らえる」(14:46など)と訳されています。
エルサレムの初代教会を指導した人たちの中に、ペトロと並んで主の兄弟ヤコブがいます。
割礼なしで良いなどと勝手なことを言うなとパウロをきびしく批判したのが、主の兄弟ヤコブです。
マルコ福音書は、エルサレムの教会の指導者たちに対して、批判的な視点を持っています。
力ずくで取り押さえようとした身内の人たちは、悪霊によって癒しの業をおこなっていると言った律法学者たちと、同じではないかというのです。
「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(3:35~36)
「ここに」とは、ガリラヤで主イエスのまわりに座っている人たちです。
漁師、農夫、徴税人、病気で苦しむ貧しい人たち、さらに言えば、教会につながっているわたしたちを、兄弟と呼ばれたのです。
「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」(3:28)
「人の子」は主イエス、「人の子ら」は主イエスと主に従う者たちです。
主に従う者が「神の御心を行う」とき、神を冒涜している、安息日の掟を破っていると世の非難を受ける。
しかし、恐れることはない。
それは、御心を行おうとした結果なのだ。いろんな波風が立ち、人々から取り押さえられるようなことがあったとしても、すべて神の前で赦されている。
恐れずに神の御心を行いなさい。こう語りかけておられるのです。
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