マルコ福音書4章1~2
「たとえ」(4:2)という言葉は、ヘブライ語の「謎」(メシャリーム)から来ています。
この話で何が言いたいか分かるかという、「謎かけ」です。
ですから、言葉一つひとつに何かを当てはめていく読み方は、見当外れと言えるでしょう。
13節~20節は、初代教会の人たちが書き加えた説明で、主イエスがお話しになった内容からずれています。
ところが、この説明が一人歩きして、誤解につながっているのです。
「欲望や悪い思いが、茨のように邪魔して、信仰の道をふさぐことがないように」、
「良い畑になりましょう。」
こうした教訓的な理解が多いのです。
でも、主イエスはそんな話をなさったのではありません。
『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』(4:12)
これは、イザヤ書6章9~10の引用です。
イザヤは、人々のところへ行ってわたしの言葉を語りなさい、との神の召しを受けました。
しかし、あなたが語っても、人々は心を頑なにして聞こうとしないだろう。
それどころか、神に逆らって、ついには国が滅び、捕囚の民として遠くの地に連れて行かれるだろう。
「切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは、聖なる種子である。」(イザヤ書6章13)
国が滅び、もう何の望みもないという破局を迎える。
しかし、そんなときにも「切り株」が残される。
「切り株」は「聖なる種子」であり、そこから芽が萌え出る。
主イエスご自身が、
「一粒の麦」(ヨハネ12:24)として地に落ちて死に、豊かないのちを約束してくださったのです。
でも、そのことを、このとき弟子たちは誰一人として理解していなかったのです。
9.11同時多発テロから、15年経ちました。
わたしたちの目の前には、憎しみの連鎖が広がり、平和とはほど遠い状況があります。
圧倒的な世の力の前で絶望し、もうお手上げだ、何をやっても無駄だと投げ出してしまいそうになります。
しかし、神の言葉にはいのちの力があって、時が来れば芽を出す。
だから、信頼して神の御心を行いなさい。
「種を蒔く」というたとえは、そうわたしたちを励ましているのです。
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