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隠れたことを見ておられる主

マタイ福音書6章1~8、16~18


「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」(6:1)

ここで「善行」は、「施し」とほぼ同じ意味です。
「善行」は、別の箇所では「義」と翻訳されています。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ書2:16)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(6:33)

この「義」(ディカイオスネー)が、「善行」と訳されています。



施しと祈りと断食によって義とされるとする態度が、批判されているのです。

単に人に見られようとしてはならないとか、心がこもっていないという話ではありません。

同じように、祈るときも目立とうとしてはならないと受け取るのは、少しずれています。
祈る意味をわきまえず、自分は毎日祈っています、毎朝一番に祈っていますと誇るのであれば、人前で大げさに祈るのと何ら変わりはないのです。

なぜ断食しないのかと詰問されて、主イエスが答えます。

「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」(9:15)

わたしがいなくなったら断食する、という意味ではありません。
「断食ごっこ」などやっておれないというのです。

ルカ18章に、ファリサイ派の人と徴税人の話が出てきます。
「この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11~12)

断食は、自分の罪を悔い神に赦しを請うしるしです。
それなのに、週に二度の断食を誇るなど、自己満足にすぎません。



「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」(イザヤ書58:6~7)

社会的な正義と公正の実現をめざし、弱い人たちに手を差し伸べることこそ、まことの「断食」なのです。
(2018年6月10日)



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