マタイ福音書5章43~48
主イエスが
「敵を愛しなさい。」(5:44)と言われたのは、ユダヤ各地でローマに対する反感が高まるなかで、武器を持って立ち上がろうと考える人たちに向かって語られた言葉です。
憎しみが燃えあがるとき、たとえ良い動機で始めたことでも、悪魔の所業となっていく。
自分たちの権利を守り、愛国心に燃えた気高い行為のように見えても、排他的な民族主義が隠れている。
そのことを見抜いて、あなたがたが敵と考えるローマの兵士たちも、神の愛される人間の一人なのだ。
あいつらは悪魔だとレッテル貼りをしてはならない、と言われたのです。
「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)
ここで「完全な」とは、パーフェクトで欠点がないという意味ではなく、「全部そろっていて、欠けがない」ことです。
あいつは友だちとして付き合う値打ちがない、あいつには挨拶しないでおこう・・・と、わたしたちは次々外していきます。
しかし神は、こいつは悪い奴だからといって外す方ではありません。
神がすべての人を愛されるように、あなたがたも人を排除せず、受け入れなさい、という意味です。
律法の引用、
「隣人を愛し、敵を憎め」(5:44)のギリシア語原文は未来形です。
ギリシア語には命令形で「希望的観測を込めた未来」を表す用法があります。
これは、律法の表現とも共通しています。
主イエスは、律法の表現を受け継ぎながら、希望的観測を込めて「愛敵」を語られたのです。
「あなたがたは敵を愛するだろう。自分を迫害する者のために祈るだろう。」
そうなってほしい。
そうなるよう、わたしは願っている。
命令形では、道徳的な掟になってしまいます。
しかし、主イエスはそうなってほしいと望んでおられるのです。
あなたがたは、今、敵を憎んでいる。
しかし、わたしに従うとき、敵を受け入れ愛することができるようになるだろう。
迫害する者のために祈ることができるようになるだろう、という言葉なのです。
どのようにして、でしょうか。
主イエスご自身が、迫害する者のために祈られたことに目を注ぐことによってです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
ご自分を鞭打ち、あざけり、十字架につけた兵士たちを赦してやってくださいと、とりなしの祈りをなさった。
この主イエスの大きな愛を、わたしたちがもう一度見つめ直す時、わたしたち自身にはそんな力はありませんが、キリストの愛がわたしたちを通して溢れ出し、神の赦しの愛が溢れ出すのです。
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