マルコ福音書8章27~9章1
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(8:29)
ペトロが答えます。
「あなたは、メシアです。」(8:29)
「メシア」は、ヘブライ語の「油を注ぐ」という動詞「マシャハ」から来た言葉です。
王が任命されるとき、預言者や祭司を聖別するとき、油を注いだという記事があります。
バビロン捕囚以降は、滅んでしまったユダヤの国を再建するメシアが神から遣わされると、人々は待ち望むようになります。
ペトロの言葉を聞いて、主イエスは、「だれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(8:30)
「戒める」と翻訳された言葉は、「叱りつける」という激しい言葉です。
何が問題だったのでしょうか。
「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ書61:1)
ルカ福音書は、イザヤ書を引用して、主イエスの宣教が始まるしるしとしています。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」(8:31)
この言葉を聞いて、
「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(8:32)
先生、あなたは思い違いをしている。
そんなことがあってはならない。
神から遣わされたメシアが苦しみを受け、侮辱され、排斥され、殺される、そんな馬鹿なことはない。
メシアは、力を振るって悪を打ち破るはずだ、と言おうとしたのです。
主イエスが言われます。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8:33)
そんなに苦しまなくてもいいのではないか、逆らわずに上手にやっていくやり方があるはずだ。指導者として先頭に立てばよいという人間的な思いを、主は退けられたのです。
主イエスが受難の道を歩もうとなさっていることを、全く理解できなかった弟子たちの姿を福音書は描いています。
ペトロが、ナザレのイエスこそキリストだ、と大胆に語ることができるようになるのは、復活の主イエスに出会ったからです。
ペトロを変えてくださった主が、わたしたちも変えてくださいます。
自分の弱さを嘆くことなく、希望を抱いて歩んでいきましょう。
(2017年2月26日)
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