マルコ福音書8章22~26
なぜ主イエスは、
「この村に入ってはいけない」(8:26)と言われたのでしょうか。
目が見えるようになったこの人は、どんな行動に出るでしょうか。
わたしは見えるようになった、あなたも行ってごらんなさい、どんな病気もきっと治していただけるはずだと、言って回るはずです。
そんなことはやめなさいと、主イエスは言われたのです。
「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、・・・歩けなかった人が躍り上がる。」(イザヤ書35:5~6)
これは、メシアが来られたしるしです。
ただ上辺だけしか見ないで、噂が広がっても何の足しにもならないというのです。
「『何か見えるか』とお尋ねになった。」(8:23)
盲人は答えます。
「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(8:24)
おぼろげに輪郭が分かったということです。
そこで、「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」(8:25)
主イエスが2回目に触った時、はっきり見えるようになったのです。
二段階に分けられているのは、次の記事に関係があります。
「ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(8:29~30)
「だれにも話さないように」は、「この村に入ってはいけない。」と同じ趣旨です。
メシアとは何か、その意味が分からないまま、自慢して回るのはやめなさいというのです。
ペトロはこの時、主イエスがメシアだと分かったものの、何をなさろうとしているのか、まったく分かっていませんでした。
はっきり見えるようになるためには、主イエスにもう一度触っていただく必要があったのです。
復活の主に出会ったとき、はじめて分かったのです。盲人の姿とペトロが重なっていることが分かります。
長いあいだ聖書を読み礼拝に出ていても、なかなか核心をつかむことができないことがあります。
でも、ああそうだったのかと目から鱗が落ちるような経験をします。
理屈だけでなくて、神の愛に触れたという経験をするのです。
主イエスは、「村の外に連れ出し」て(8:23)、触ってくださる。
一人ひとりに向き合ってくださるのです。
わたしたちの頑張りではなく、主イエスの方から手を差し伸べて触ってくださる。
わたしたちを愛し抜いて、十字架にかかってくださったのです。
そのことを想い起こして、この記事を受け止めたいと思います。
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