忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

希望に生きる

ローマ書5章1~11
パウロの手紙は、元々、教会で朗読されたものです。
聞き逃しても、追いつくことができるよう、違う言葉で言い換えながら繰り返す特徴があります。



「義とされた」(5:1)は、「神との間に平和を得ている」(5:1)と言い直されています。
「平和」(シャローム)とは、神と本来の関係にあることで、「神と和解させていただいた」(5:10)につながっています。「信仰によって」(5:1)です。

これは、「律法を実行することによって」(3:20)の対極となる言葉です。
信仰深い、立派な行いによってではなく、ただ主イエスの十字架の死によって、神に受け入れていただいた。
主イエスの死がわたしのためであると知って、喜びにあふれている、と語るのです。
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(5:3~4)は、苦難を恐れず立ち向かおうという標語のように理解されることが多いのですが、何を伝えようとしているのでしょうか。

「苦難」(5:3)は、「すりつぶす」という意味の言葉です。
すりつぶされてしまうような苦しみです。
実際、パウロは中傷され、牢に入れられ、船が難破するなど、ひどい苦しみを受けています。

「忍耐」(5:3)は、しっかりその場に踏みとどまるという言葉です。
「練達」(5:4)は、「検査を受けて本物と証明される」という言葉です。
「希望」(5:5)とは、ここでは単なる願いごとではなく、苦しみを乗り越えた先に与えられる希望、すなわち究極の救いです。

すりつぶされるような苦しみの中にあっても、その場に踏みとどまることによって、検査済みとされ、確かな救いを与えられる、というのです。

「欺くことがありません」(5:5)は、「恥をかかせる」という言葉です。

わたしたちが神に受け入れられ、本当の人間として生まれ変わった喜びは、決して空しいものではないというのです。



「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(5:8)

「まだ弱かったころ」(5:6)が、「まだ罪人であったとき」(5:8)「敵であったとき」(5:10)と、言い直されています。
神に逆らう傲慢なわたしたちのために、主イエスが十字架に死んでくださったという信じがたい出来事、
また「神の愛がわたしたちの心に注がれている」(5:5)その喜びにあふれるこの実感は、
疑いようがない事実である。

このことによって、希望が確かなものであることは明らかだとパウロは語ります。

神から受け入れていただいた喜びにあふれ、希望に生きる、そんな一年でありたいと願います。
(2017年1月1日)




ホームページに戻る
PR

Copyright © 門司大里教会メッセージ : All rights reserved

「門司大里教会メッセージ」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]