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ヨハネ福音書4章43~54
王の役人が遠い道をやって来て、息子が病気で死にかかっています、死なないうちにおいで下さいと、主イエスに懇願します。
この人は、バプテスマのヨハネの首をはねたガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに仕えていました。
残虐な領主に仕える者の願いなど聞き届けられるはずがないと、人々が考えたとしても不思議はありません。
ヨハネ4章に登場するのは、サマリアの女といい、この王の役人といい、救いからほど遠いとされる人たちです。
(マタイ8章・ルカ7章は、異邦人である百人隊長の願いが、その信仰の故に聞き入れられ、部下が癒やされたと伝えています。)
ここで、息子の病気を癒やしてください願う父親に対して、
「あなたの息子は生きる」(4章50)
と言われたのはどういう意味でしょうか。
「生きる」という言葉は、ヨハネ福音書ではどのように使われているでしょうか。
「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(5章25)
私たちは、病気を癒やしてください、この望みをかなえてくださいと祈ります。
しかし、私たちの願いは、「水を飲んでも、また渇く」ように、次から次へとふくらんで、満足することがありません。
「この願いが聞き届けられたら信じます」という私たちは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ信じない」(4章48)と言われた人たちと同じなのです。
この父親は、子どもが死なないで助かることを願いました。
しかし、その願い以上のこと、永遠の命を生きる者とされることが約束されるのです。
聖書が教えているのは、「主イエスの言葉を聞くこと、信頼すること」です。
救われるのは、信仰の熱心さによってではありません。
「一人も滅びないで、永遠の命を得る」(3章16)ようにとの、神の愛を受けいれることによってです。
主イエスの声を神のことばとして聞き、受けいれるとき、私たちは生きる者とされるのです。
(2014年10月5日)
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