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聞く、分かる、信じる

ヨハネ福音書4章39~42


「サマリアの人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。」(4章40)

ここで「とどまる」(メノー)という言葉は、15章で

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

の箇所で、「つながる」と訳されている言葉です。





水を飲んでもすぐ渇き、パンを食べてもすぐ空腹になる、そのように私たちは望んでいるものが手に入っても満足することがなく、かえって欲望が膨らんでいきます。

たとえ人を傷つけ踏みつけにしてでも、望むものを手に入れようとさえするのです。




しかし、主イエスにつながっているとき、主の平安が与えられます。

私たちは「アッバ父よ」と、切実な願いを祈り求めることが許されています。

「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4章6)

願い求めるなかで、自分勝手な祈りであったことを示され、隣り人の苦しみに気づかされます。

許せないと腹を立てていた、あの人の苦しみに気づき、その人のために祈る。

自分の頑なさ、高慢を、主に赦していただく祈りへと導かれるのです。





求めていたものは、与えられないかもしれない。

しかし、求めていた以上のものが与えられる。

ほんとうに必要なものが、必要なときに与えられる。

そこに、神の恵みがあふれていることに気づくのです。

(2014年9月28日)


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