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蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ

ヨハネ福音書4章31~38


ヨハネ福音書4章は、主イエスがサマリアの女に話しかけるところから始まります。

そして、渇くことのない生きた水の話になります。

さらに、ここでは弟子たちに、主イエスこそまことのパンであることが示されます。





水も食べ物も、私たちにとってなくてはならないものです。

しかし、主イエスが来られたからには、生ける水、まことのパンである主イエスをこそ求めるべきだと語られるのです。

「畑」「色づいて刈り入れを待っている」(4章35)

とは、どういう意味でしょうか。

弟子たちは、サマリアなど神の救いに招かれるはずがないと考えていました。

しかし主イエスは、目の前のこのサマリアに、神が愛される世界が広がっていると宣言されるのです。



弟子たちと同じように私たちも、あんな人は駄目だとか、あんなグループと一緒にやりたくないと、レッテルを貼ったり壁を作ったりしがちです。

主イエスは、悔い改めた人のところに行かれたのでしょうか。

主イエスは、罪人とレッテルを貼られ蔑まれている人を訪ねて、

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17)

と言われました。

主イエスの愛に応えて、悔い改めが起こったのです。

現実の世界では不正と悪がはびこり、種を蒔く者がその収穫を手にすることが出来ないという事態が起こります。

しかし、神の支配の下では「蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」(4章36)ことが約束されています。

神がこの世界を愛され、愛の種を蒔いておられるのです。





私たちは、感謝して収穫するよう呼びかけられているのです。

この世は救いようがないと落胆したり絶望するのではなく、

「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」

と祈りつつ、主の呼びかけに応えて立ち上がる者とされるのです。

(2014年9月21日)

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