マタイ福音書9章1~8
古代の人は、重い病気になるのは、罪を犯して神の罰を受けているのだと考えました。
病気になって、あの人は何か悪いことをしたに違いないと周りから見られるのは、屈辱的なことです。
まるで死人のように、自分の思うように行動できない辛さ、悔しさ、悲しさ、絶望が、「中風の人」を包んでいたのです。
「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)
現在形の受身形です。
あなたは、神から見捨てられた、わたしには何の希望もないと絶望し、気力も失せて嘆き悲しんでいる。
しかし、あなたは赦されているのだ、神に愛されているのだ、という赦しの宣言です。
「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(9:5)
「罪が赦される」のは、重大なことがらです。
ただ願うほか、ありません。
しかし、罪が赦されたかどうかは、見た目では分かりません。
一方、「起きて歩け」の方は、治らなかったら誤魔化しようがありません。
そこで、「あなたの罪は赦される」などと、とんでもない罰当たりのことを言ったのだろうと、この律法学者は考えたのです。
ところが、主イエスがなさったのは、まず罪の赦しの宣言でした。
心に喜びが溢れ、神から与えられる命が湧き出してくる、罪の赦しをお与えになった。
その後で、病いをいやされたのです。
「どちらが易しいか」という問いは、「どちらが根本の問題か」というきびしい問いなのです。
「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」(9:6)
「起き上がる」エゲイローは、受身形で使われると、神によって死者の中から起こされる、復活するという意味になります。
まるで死者のように、どうすることもできなくて苦しんでいる状態から、起こされ、復活の命で満たされるのです。
「家に帰る」とは、自分の働き場に帰って行くことです。
でも、来たときとは全然違います。
「踊り上がる」ようにして、自分の持ち場に帰って行ったのです。
神が罪を赦してくださる方であることに目を留め、神の愛を全身に受けて、喜びにあふれて立ち上がりなさい。
こう呼びかけられているのです。
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