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ヨハネ福音書5章31~47
ベトザタの池のかたわらで38年間も病気で苦しんでいた人を立ち上がらせたことで、主イエスはユダヤ教の指導者たちから攻撃されるようになりました。
その日が、安息日であったからです。
さらに、安息日に病人を癒やしたことを咎められて、
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(5章17)
と「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたから」(5章18)です。
こうして、ナザレのイエスとはいったい何者なのかと、みんなが不思議に思うようになります。
この問いに答える形で、
「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」(5章36)
と語られます。
神の姿を見ることはできない。
しかし、私がやっていることを見るが良い。
私が語る言葉を聞くが良い。
そこに父なる神が働いておられる。
私のしていることが真実であることは、父なる神が明らかにしてくださる
というのです。
「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れ(神の栄光)は求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」(5章44)
ほめられたい、認められたいと、栄誉や名誉を有り難がる私たちの姿勢が、神を信頼することを妨げているというのです。
教えを守って正しく生きようとするあまりに、律法からはみ出す者を攻撃し、排除する。
そういう「掟を守る信仰」によって社会秩序を維持しようとする姿勢が、掟を守りたくても守れない弱い人や少数者を切り捨てていることに気が付かないのか。
私が行っている業と言葉に、神の御心が示されていることに気づきなさい、
と言われるのです。
(2014年10月26日)
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