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ヨハネ福音書6章1~15
「ティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」(6章1)
という言葉には、この世の権力者ローマ皇帝ティベリアスと対極にある、主イエスの姿が示されています。
また、「過越祭が近づいていた」(6章4)
という言葉からは、ヨハネ福音書の記者がこのパンの奇跡を過越祭(主の受難と復活)との関連で受けとめていることが分かります。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6章9)
パンは、普通は小麦で作ります。
大麦のパンは、貧しい者の粗末なパンです。
小さな男の子が持っている、わずかばかりの粗末なパンでは、おびただしい人数の空腹を満たすことなど出来ないと考えるのは、当然です。
なすすべがないと考えるのが、私たちの判断です。
しかし、主イエスは「欲しいだけ分け与えられ」(6章11)ます。
そして人々が満腹したとき、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(6章12)と言われます。
ここで「無駄にならないように」は、3章16の「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」の箇所の「滅びないで」と同じ言葉です。
神は、私たちが一人も滅びないようにと願っておられる。そのために、主イエスが十字架に死んでくださったのです。
マザー・テレサは、カルカッタの町に毎日出かけていって、行き倒れの人を連れて帰って介抱しました。
息を引き取る前に、生きてきて良かったと思えるようにです。
何百万人もの貧困を前にして、マザーの働きは何の役にも立たないと言えるかも知れません。
しかし、「多くの人は、ひときれのパンにではなく、愛に、小さなほほえみに飢えているのです。」というマザーの言葉は、私たちの胸を打ちます。
きびしい現実の前で、私たちは無力です。
しかし、主イエスは私たちの手元にある粗末な大麦のパン、私たちの小さな働きを生かして用いてくださいます。
主イエスの言葉を信頼して、私たちそれぞれの手元にある「五つのパンと二匹の魚」を捧げて、従ってまいりましょう。
(2014年11月2日)
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