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ヨハネ福音書6章16~21
弟子たちは主イエスから命のパンをいただいて、新たな命を生きる者とされました。
しかし、「向こう岸」(6章17)(この世)へとこぎ出していこうとしたとき、あたりは闇に包まれていました。
「暗くなっていた」(6章17)は、「光は暗闇の中で輝いている。」(1章5)の箇所の「暗闇」と同じ言葉です。
「暗闇」とは、この世、人間の世界、私たちです。
弟子たちが暗闇の中で嵐にあい、波と風に翻弄される姿は、私たちがこの世の力に取り囲まれ、人の目を恐れる姿と重なってきます。
原子力発電所の再稼働が問題になっています。
原発を推進しようとしている人たちは、原発は安全だ、原発は私たちを幸福にするとほんとうに信じているでしょうか。
おそらく、かなり多くの人が危険性を認識し、やめた方がいいのではと思いながらも、自分の立場を失うことを恐れて、推進する方向に動いているのではないでしょうか。
私たちは、神などなくても良い、神なしでも立派にやっていける、助け合って生きるなんて煩わしいだけだと、自分の思い通りに生きようとします。
しかし、人の目を恐れ、自分の立場を失うことを恐れるあまり、間違っていると思う選択をもせざるをえない立場に追い込まれていくのです。
しかし、暗闇(世の力)を恐れ、この世の嵐を恐れる、そんな私たちに、主イエスの方から近づいて来られて、「わたしだ。恐れることはない。」(6章20)と言われます。
「わたしだ。」エゴー・エイミーは、「私こそ神である。」との宣言です。
「私こそ、闇の中に命の光をもたらす神だ。」と宣言され、
世の力など恐れなくてよいと励ましてくださるのです。
舟に「迎え入れ」(6章21)は、聖霊を「受ける」と同じ言葉です。
イエスを主と仰ぎ、受け入れるとき、乗り越えることなど出来ないと思えた困難に向かって踏み出す力が与えられるのです。
(2014年11月9日)
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