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ヨハネ福音書6章22~40
パンの奇跡の翌日、向こう岸に残された人々が主イエスを捜してカファルナウムにやって来ます。
彼らに主イエスが言われます。
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(6章26)
人々は、自分たちの望みをかなえてくれる指導者、ローマに対抗してユダヤに繁栄をもたらしてくれる王として、イエスに期待をかけていたのです。
主イエスは、彼らの思い違いを分からせようとされます。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6章27)
主イエスの与えるパンは、食べてもなくならないパンです。
しかし、人々は分からずに、なおも言います。
「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(6章34)
この「いつも」という言葉は、絶えず、とこしえに、将来いつもという強い言葉です。
人々は、「食べ物を永久に、将来にわたって、死ぬまで保障してくれ。そうすれば信じる。」
と露骨に要求しているのです。
これは、私たちが政治家に要求する期待と同じです。
豊かな暮らしを約束してくれ、景気を良くしてくれ、強い国にしてくれといった要求です。
人々の勝手な願いに応えようとして、政治が暴走していきます。
株があがったと大喜びする一握りの人がいる一方で、将来に希望をもてない若者が大勢いるのです。
原発を推進する人たちは、今なお故郷に帰れないで仮住まいをしている福島の人たちがいることを知りながら、その現実に目を向けようとしません。
私たちは、他人事のように原発事故の大惨事から目をそむけ、いのちよりも豊かな暮らしを求めて恥じない人間です。
そんな私たちに主イエスは、私こそ命のパン、命の水であると宣言されるのです。
主イエスを信頼し、主イエスに従うとき、そんな私たちに「永遠の命」が与えられる、
隣り人と共に歩む力が与えられ、喜びに満たされると約束されるのです。
(2014年11月16日)
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