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今やその時である

ヨハネ福音書5章19~30

「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(5章30)

ここで主イエスの「意志」と神様の「御心」は、セレーマという同じ言葉です。





この言葉は、十字架のご受難の直前、ゲツセマネの祈りにも出てきます。

「アッバ、父よ、あなたには何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(ルカ22章42)

何でもお出来になる神の御心は、裁き主である主イエスが、神の小羊として死ぬことなのです。

罪を裁く方が、神の小羊として罪を背負って死ぬ、この驚くべき出来事を主イエスが引き受けてくださる。それが神の御心なのです。



多くの預言者が、神のきびしい裁きを語りました。

しかし、預言者たちは苦しんでいる民や悲しんでいる者に、神の裁きを告げたでしょうか。

彼らは、王や指導者たちに、神の御心にかなう政治をおこなうように警告したのです。

神は、どんな人にも祝福を与えておられます。

「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」(エゼキエル書33章11)

と言われるのです。





主イエスは、終わりの日の裁きを告げて、悔い改めを迫るようなことは、決してなさいませんでした。

主イエスは、罪人とされ軽んじられている人に近寄って、慰めの言葉をかけられました。

見えるものに縛られ、空しいものを追い求めている私たちを憐れんで、まことの命を与えようと呼びかけておられるのです。

主イエスの言葉を聞いて信頼する者は、今ここで死から生へ移されている、救いの出来事が起こっていると告げておられるのです。

(2014年10月19日)


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