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あなたは何者か

ヨハネ福音書8章48~59 

聖書は、「命」をどう捉えているでしょうか。

人は、ただ動物としての命を生きているだけでは意味がない。
神と深く関わったときに、人の命に意味が与えられると考えます。



ヨハネ福音書は、主イエスの言葉につながることによって、
わたしたちは神に出会い、まことの命とつながることができる。
神の言葉につながることによって、
今、意味ある命を生きることができる、
生きる力が与えられる。
そのことを、「永遠の命」を与えられると表現しています。

「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(8:51)

も、同じ意味合いで語られています。

これに対して、主イエスに敵対する人たちは、
「あなたは自分を何者だと思っているのか。」(8:53)
と攻撃します。

「わたしの言葉を守るなら死ぬことがない、自分は神と一つにつながっている。」
などと言うのは、自分を神とするものだ、神を冒瀆していると非難するのです。

直前の言葉、
「わたしは、自分の栄光を求めていない。」(8:50)
は、ゲッセマネの祈りに通じるものです。

「アッバ、父よ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)

「この杯」とは、主イエスに託された使命です。
わたしは苦しくて、使命を負い切れませんと訴え、
しかし最後には「御心のままに」と祈られたのです。

わたしたちは祈るとき、素直に思いのままに願っていいのです。
でも、祈っているうちに、あなたはわがままな祈りをしているねと示される。

わがままな祈りをいつまで続けているのか、
自分の勝手な願いだということに気づかないのか、
という声が聞こえてくるはずです。



わたしたちは、わがままにしか祈れない者です。
しかし、「御心のままに」との祈りへ導かれる、それが祈りの姿です。

「わたしは、自分の栄光を求めていない。」(8:50)という言葉は、
ひたすら神に従おうとされた、
そして十字架への道を歩まれた主イエスの姿を伝えているのです。
(2015年3月22日)


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