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ヨハネ福音書9章1~12
ヨハネ福音書8章は、「身を隠して」という言葉で結ばれています。
主イエスが「わたしはある」(8:58)という者、神であると言われたのに、人々にはその意味が分からなかった(見えなかった)。そして9章では、「生まれつき目の見えない人」(9:1)の物語が続いて来ます。
マルコ、マタイ、ルカ福音書では、体の不自由な人や病人が主イエスに助けを求め、その声を聞いて、癒しの業が始まります。
ヨハネ福音書では、物乞いをしていた「生まれつき目の見えない人」(9:1)を主イエスが見かけて、近づいて行かれます。
そして、「唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」(9:6)
「土をこねて」という言葉には、神様が土の塵で人を造られたという創世記2章の物語が響いています。主イエスが土をこねて、命の息を吹きかけ、聖霊を注いで、新しい人を創造するという意味が、この箇所に隠されているのです。
そして、「シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って、洗いなさい。」(9:7)と言われた。
「わたしは、天の父から遣わされてきた者だ」と、主イエスは言っておられた。
神様から遣わされた方が、命の息を吹きかけ、命の水で土をこねて、新しい人を創造する。人が新しく立ち上がる、新しく生まれ変わる、そういう業をなさった。
こうして、わたしが神様から遣わされた者であることが分かる、「見えるようになる」、というのです。
身の回りに困っている、辛い目にあっている人を見かけたら、手を貸す、支える。そこに、新しい関係が生まれる。
互いに心が温かくなり、新しい命が息づいていく、元気になっていく。
神様から愛されているということを、互いに確認することができる。
そういう「神の業」(9:3)に、あなたも加わりなさいと呼びかけられているのです。
(2015年4月19日)
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