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ヨハネ福音書9章13~34
生まれつき目の見えない人を、安息日に主イエスが癒やされたことに、ファリサイ派の人々が腹を立てます。
安息日とは、そもそもどういう日でしょうか。
神が世界を創られて、7日目に休まれた。その日はあなたが休むだけではなくて、召使も奴隷も家畜もみんな休ませなさい。
これは、自分の思い通りに働かせている召使も奴隷も家畜も、大事な命であることに気づきなさいという意味を含んでいます。
ファリサイ派の人たちは、安息日を守らないとは何事だと怒っています。
目が見えるようになって良かったねと喜ぶどころか、お前はいい加減なうわさを広めて世の中を惑わせている、でたらめを言うな、と脅します。
見えるようになった人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(9:25)と大胆に語ります。
「見える」とは、肉眼の目が見えることではなくて、神の御心が分かる、人を恐れずただ神だけを畏れる。
人からどう思われるかを恐れず、本当に大事なことをちゃんと行動できる。それが「見える」ということです。
聖書の集いで、アモス書を学んでいます。
どんなに盛大な犠牲(礼拝)を捧げても、神は喜ばない。
「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように流れさせよ。」(アモス書5:24)。
「みなしご」、「やもめ」、「寄留の民」、そういう弱い人たちが公平に扱われる社会を神は望んでおられる。
これが、アモス書のメッセージです。
このことが、わたしたちにも見えるようになり、御心が分かるようになるのです。
(2015年4月26日)
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