忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今は見える

   ヨハネ福音書9章13~34 

生まれつき目の見えない人を、安息日に主イエスが癒やされたことに、ファリサイ派の人々が腹を立てます。

安息日とは、そもそもどういう日でしょうか。
神が世界を創られて、7日目に休まれた。その日はあなたが休むだけではなくて、召使も奴隷も家畜もみんな休ませなさい。
これは、自分の思い通りに働かせている召使も奴隷も家畜も、大事な命であることに気づきなさいという意味を含んでいます。



ファリサイ派の人たちは、安息日を守らないとは何事だと怒っています。
目が見えるようになって良かったねと喜ぶどころか、お前はいい加減なうわさを広めて世の中を惑わせている、でたらめを言うな、と脅します。

見えるようになった人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(9:25)と大胆に語ります。

「見える」とは、肉眼の目が見えることではなくて、神の御心が分かる、人を恐れずただ神だけを畏れる。
人からどう思われるかを恐れず、本当に大事なことをちゃんと行動できる。それが「見える」ということです。




聖書の集いで、アモス書を学んでいます。
どんなに盛大な犠牲(礼拝)を捧げても、神は喜ばない。

正義を洪水のように、恵みの業を大河のように流れさせよ。」(アモス書5:24)。

「みなしご」、「やもめ」、「寄留の民」、そういう弱い人たちが公平に扱われる社会を神は望んでおられる。

これが、アモス書のメッセージです。

 このことが、わたしたちにも見えるようになり、御心が分かるようになるのです。
(2015年4月26日)

  ホームページに戻る

PR

Copyright © 門司大里教会メッセージ : All rights reserved

「門司大里教会メッセージ」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]