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ヨハネ福音書9章35~41
生まれつき目の見えない人が、主イエスに癒やしていただいた。
ところが、いい加減なことを言うなと尋問されます。
しかし、あの方が治してくださった、こんなことは神から遣わされた人にしか出来ないと言い続け、会堂から追放されてしまいます。
ファリサイ派の人たちは、安息日を守ることを絶対視して、病気の人を癒やすことさえとがめ立てします。
人の命よりも、社会的な規範を優先する態度です。
「人の子を信じるか。」(9:35)という主イエスの言葉は、先入観なしにわたしの言葉を聞き、わたしの振る舞いを見て、わたしを信頼しなさいという言葉です。
見えるようにされた人との問答は、そのことを示しています。
わたしは、主イエスの言葉によって変えられ、生かされている。このわたしの身に起こった出来事をしっかり受けとめる、そのことが大切です。
隅谷三喜男さんが、「日本のキリスト者は、二階建ての信仰を生きている。」と言いました。
ふだんは一階で仕事漬けの生活をし、日曜日になると二階にある教会に出かけ、礼拝で心洗われた気分になる。
しかし、日常生活に戻ったら仕事優先で、信仰が日常生活から分離し、暮らしに根づいていないというのです。
わたしたちの信仰は、きれい事で終わっていないでしょうか。
信仰によって立派になるのではなくて、主イエスに従って、弱い人と共に生きる者に変えられるのです。
「あなたは、もうその人を見ている。」(9:37)と主イエスは言われました。
そういう生き方を、すでに示されているのです。
わたしたちは裸の自分を直視することができず、上辺の自分を守ろうとします。
口先だけ立派なことを言って、自分の生き方を変えようとしません。
建て前と本音を使い分ける信仰ではなくて、日々の仕事や暮らしのなかで主イエスに従っていきたいものです。
(2015年5月3日)
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