イザヤ書43章1~7
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1:23)
アドヴェントに読まれる箇所です。
「わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ43:5)という言葉は、何度も繰り返されます。
イサクに(創世記26:24)、ヤコブに(創世記35:3)モーセに(出エジプト記3:12)語りかけられ、詩編23篇、46篇でも歌われます。
イザヤ書43章は、「しかし、今や、ヤハウェはこう言われる。」という言葉で始まります。
翻訳では省かれていますが、「しかし」に注目したいと思います。
その直前では、「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。」(42: 19)
「彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。」(42:24)
これは、イスラエルの民に対する断罪の言葉です。
「炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」(42:25)
エルサレムの城壁が破られ、炎に包まれても、神の怒りを悟らない。
「しかし、今や、ヤハウェは言われる。」そんなあなたたちをわたしは赦して、エルサレムに連れて帰ろう。「わたしの目にあなたは価高く、貴く」(43:4)と続きます。
そして、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」(43:5)
わたしたちは神の前に出ることなどできない、見捨てられて当然の者です。
しかし、それにもかかわらず、「わたしはあなたと共にいる。」と言われるのです。
ノアの箱舟の物語で、大洪水の後、主は決意されます。
「大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8:21)
人間は、悪いことばかり考えている。
だからといって、こんな人間は滅ぼすしかないと思うのは止めよう、と神は決心されたというのです。
「しかし、今や」なのです。
人間の悪は救いがたく、絶望的に映ります。
しかし、神は宣言されます。
「わたしはあなたを贖う。」(43:1)、
「あなたと共にいる。」(43:2、5)、
そして
「連れ帰る。」(43:5)
これは、単に「エルサレム」へではありません。
わたしたちにとっては、象徴的にエデンの園の状態、神とともにあってすべての命と調和しあっている状態、「主の平和」の中に置かれることを意味します。
小さな一人ひとりを大切になさる神の愛を覚え、新しい時を待ち、約束の地への希望を確信しながら、アドヴェントの時を大切に過ごしたいと思います。
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