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主の僕の歌

イザヤ書52章13~53章12


「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(53:1)

神の栄光は力溢れる王の姿で表されると、わたしたちは思っている。
しかし、神の御心は無惨な仕打ちを受け、打ちたたかれる無惨な僕の姿をとって表される、神はもっとも弱い者と共におられるというのです。



「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように」(53:2)

これは、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」(11:1)につながっています。

エッサイとは、ダビデ王の父の名です。
ダビデの王家は滅びたが、その切り株から新たな若枝が芽を出す。

「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。・・・わたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(53:5~6)

第二イザヤは、捕囚の民が解放されてエルサレムに帰る日が近いと預言しました。
そのために捕らえられ、無惨な死を遂げました。

その姿を、弟子たちが書き留めました。
わたしたちの先生は無惨な姿で殺されたが、その言葉によって、希望を持ってエルサレムの再建に立ち上がる人が与えられた。
先生の死は、多くの人の罪を背負った姿であったと歌ったのです。

「苦しむ僕の姿を通して御心が示される。しかし、そのことを人々は悟らない。」

このイザヤ書の預言を、何百年も経ってから、これは主イエスの姿そのものだ、主イエスの受難と十字架の死を歌った預言だと受け止めたのです。

そして、そこから大きな力を得、人々に証しするようになったのです。

マリアに語られた天使の言葉、「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:33)

「神の支配」とはどういうものでしょうか。
神の支配は、強い力、武力によってではなくて、神の独り子が人々の身代わりになって殺されることによって御心が示される。
そのことを人々が受け入れることによって、御心が人々の間に実現する。こうして、イザヤの預言が成就したとルカ福音書は語ります。



わたしたちは、今クリスマスを待っています。
クリスマスは、わたしたちにとって救い主が生まれる喜びの時です。

しかし、神にとっては、御子を贖い主として世に遣わすこと、その御子が無惨な十字架の死を引き受けることなのです。

クリスマスの出来事は、十字架の出来事と裏表でつながっています。
そのことをイザヤの預言から聞きながら、救い主が与えられるその重い意味をかみしめたいと思います。
(2015年12月13日)



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