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ヨハネ福音書8章1~11
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、主イエスに問います。
モーセの律法に従って、この女を石で打ち殺すべきかどうかと。
もし「打ち殺しなさい」と言えば、「神は罪人を赦される」という日頃の教えと矛盾します。
しかし、「打ち殺してはいけない」と言えば、モーセの律法を否定し、
神を冒涜することになります。
どちらに答えても不利になる問いであり、「訴える口実を得るため」(8:6)の質問でした。
姦淫は十戒に定められた罪(出エジプト記20:14)ですが、
人と人との関係を壊すものとして戒められたものです。
しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、社会の秩序を守るために、
律法を破る者を断罪したのです。
そもそも、姦淫の罪で罰せられるのは、いつも貧しく弱い者、特に女性でした。
有力者や金持ちが、姦淫の罪で打ち殺されることがあったでしょうか。
糾弾されるのは、きまって後ろ盾のない貧しい者でした。
立場の弱い者を痛めつけ、見せしめにすることによって、人々を支配していたのです。
「神の教え」を振りかざして、人々を押さえつける姿がここにあります。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8:7)
という主イエスの言葉は、私たちに問いかけてきます。
誰かをすぐ批判しようとする私たちに。
人間の罪を赦すことができるのは、ただ神だけです。
「わたしもあなたを罪に定めない。」(8:11)
という主イエスの言葉は、
神の意志に従って、十字架の死によって人々の罪を贖うという決意なしには
発せられることがなかったはずです。
「安心して行きなさい。元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)
今も、こう語りかけてくださる主イエスを見上げつつ、受難節の日々を過ごしてまいりましょう。
(2015年2月15日)
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