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わたしは世の光である

ヨハネ福音書8章12~20

「わたしは世の光である」(8:12)という言葉は、仮庵祭を舞台としています。

仮庵祭は、出エジプトの出来事を記念する祭です。
奴隷の地エジプトから導き出され、水とパンを与えられて命をつなぎ、
40年の荒野の旅のあいだも夜は火の柱が行く手を照らし、
ついに約束の地に導き入れられた、その出エジプトの出来事を想い起こすのです。

こういう文脈から、「世の光」とは、絶望的な困難な状況にあっても、
進むべき行く手が示される、希望が与えられる、立ち上がる力を与えられる、
そういう意味であることが分かります。



「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(1:9)という言葉は、
降誕の出来事をさしています。

世に来られた主イエスこそ「まことの光」である、行く手を示し、立ち上がる力を与える「光」であると告げているのです。

ここで、「光」に逆らう「暗闇」が語られます。

「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(8:12)

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:5)

「暗闇」とは、世の力、悪の力を指しています。
主イエスは、この闇の力、世の力と闘われたのです。

世は、神の言葉を受け入れない。
正しいことば、神の言葉とわかっていても知らない顔をする。

そして、自分の名誉、富、権力を追い求める、誰かを踏みにじっても恥じない。
神の名、正義を振りかざして、誰かを圧迫することさえする。

そういう恐ろしいことをするのが、人間です。その姿を主イエスの十字架は示しています。

ローマの総督ピラトは、「わたしはあの男になんの罪も見いだせない。」(18:38)
と言いながら、最高権力者であるにもかかわらず、群衆の顔色をうかがい、
皆が歯向かうことを恐れて、主イエスを十字架につけたのです。



こういう暗闇の世にあって、

「命の光を持つ」主イエスに従って

「暗闇の中を歩かず」、立ち上がることが出来る、

これが「復活の命」にあずかるということです。
(2015年2月22日)


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