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わたしをお遣わしになった方

ヨハネ福音書8章21~30

「自分の罪のうちに死ぬ」という言葉が、3回繰り返されます。
「罪」と訳されているのは、「的外れ」という意味のギリシア語です。
律法を守り、良い行いを重ねることによって、救いを得られると考えているが、
それは的外れだ。
正しく生きようとすると、必ず排除と差別が生まれる。
熱心だけれど的外れな努力を重ねる、そして同調しない人に腹を立て、争いを引き起こす。

「自分の罪のうちに死ぬ」とは、そういうことです。



「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。」(8:29)

この言葉を聞いて、人々は腹を立てました。
神と自分が一体だとは、神を冒瀆する言葉だと言って、殺そうとします。

主イエスは、くり返し言われます。
わたしは自分の言葉を勝手に話しているのではない、
神から預かった言葉をあなた方に伝えている。
わたしの言葉を聞いたら、神の言葉を伝えていることが分かるだろう。
どうしてわたしの言葉をまともに聞かないのだ、と言われるのです。

わたしの振る舞いを見たら、神から遣わされたことがわかるはずだ。
病人のもとに行って、あなたの罪は赦されたと言う、そのときこの人が起き上がった。

そして徴税人のところに行って、
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)と言う。

あなたと共にいるという、神の言葉をそのまま伝えているのです。
神の言葉をそのまま伝える歩みをされたことが、ユダヤの指導者たちの怒りをかったのです。

「わたしはある」(8:28、8:29)とはどういう意味でしょうか。

「誰から遣わされたのかと問われたらどう答えましょう」というモーセの問いに対して、
「わたしはある、あるというものだ」(出エジプト記3:14)という言葉が続きます。

ここでも、
「誰から遣わされたのか」「いったい何者だ」と、
主イエスが問われているのです。

神は、全てのものに、いつでもどこでも、誰に対しても働く、生きた存在であり、
一言でとらえきれない存在です。

だから、「わたしは○○だ」の○○がないのです。
名前を付けてこういう存在であると定義づける、そういう範囲を超えているのです。




神の名を持ちださないで、
正義を振りかざさないで、
主に従うにはどうしたらいいのでしょうか。

主イエスが示される言葉と振る舞いに、聞き従っていきましょう。
(2015年3月1日)

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