マルコ福音書14章22~26
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて」(14:22)
過越祭にあたって、人々は出エジプトの出来事を想い起こし、奴隷の地から救い出してくださった神を賛美しました。
ヘブライ語では人間が神を「賛美する」と、神が人間を「祝福する」は、同じ言葉バーラクが使われます。
]ですから、「パンを取り、弟子たちを祝福して」という意味にもなるのです。
「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。」(14:23)
聖餐を、ギリシア語でユーカリスティア、英語でユーカリストと言います。
ユーカリスティアは、「感謝」という意味です。
「取りなさい。これはわたしの体である。」(14:22)
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(14:24)
「多くの人のために」は、「すべての人のために」です。
罪人のためにも、傲慢な人のためにも、ずる賢い人のためにも、主イエスの血は流されたのです。
わたしは落第生で資格がないなどと考える必要はありません。
例外なくすべての人のために、主イエスの血は流されたのです。
一つのパンを裂いて、分け与えられた。
一つの杯から、みんながいただいた。
主イエスの体と血をいただいた。
これが、主の晩餐、感謝の食事です。
「契約の血」(14:24)ここで主イエスが与えてくださるのは、一方的な赦しと恵みの契約です。
どんなに背き逆らい続けても、わたしたちに愛を注ぎ、変わることなく守ると約束してくださる。
これが神の「慈しみ」です。
「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(14:25)
「神の国で・・・するまで、決して・・・ない。」は、「これが最後だ」という決まり文句です。
捕らえられることを覚悟し、「君たちと酒をくみかわすのは、これが最後だ。」と言われたのです。
この時、そこにいたのは、裏切ろうとしているユダ、「あの人など知らない」と三度も言うペトロ、逃げ去る弟子たちです。
裏切る者、知らないと言う者、逃げ去る者をも祝福してくださる主イエスに、わたしたちは感謝するしかありません。
感謝することは、恵みを分かち合うことにつながります。
裏切る者、見捨てる者、知らないと言う者を赦し、愛し抜いて、
「わたしの体を取りなさい、わたしの血を受けなさい」
と言ってくださる主イエスの愛に包まれて、歩んでいきましょう。
(2017年9月10日)
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