忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

つまずく者たちのために

マルコ福音書14章27~31
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(14:29)
ペトロは、どこまでもわたしは付いて行きます、と言い張ります。
わたしだけは違う。わたしの真実、わたしの真心を、主よ、分かってくださいと、訴えたのです。



しかし、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(14:30)と主イエスは言われました。

捕らえられた主イエスを追って、ペトロは大祭司の屋敷の中までついて行きました。
ところが、「あなたは、ナザレのイエスと一緒にいた」と言われて、「あんな人は知らない」と繰り返し、三度目には「絶対に知らない。神かけて誓う。」と必死に否定したのです。

腰砕けになったことが問題なのではありません。
自分の真剣さを誇るのは、信仰とは正反対なのです。
背き続けているにもかかわらず赦されていることを感謝し、再び立ち上がる力を与えられる、それが信仰です。

『沈黙』という遠藤周作の小説に、キチジローという若者が登場します。
役人に脅され、裏切ってしまう。
しかし、神父に泣きながら付きまとい、「パードレ、赦してください。」と繰り返す。
この情けない、みっともない男、キチジローのためにも、主イエスは血を流されたのです。

わたしたちは、立派に信仰を守り通そうと願う。
でも、そこが間違いなのです。
キチジローとわたしたちは、何ら変わるところがありません。
逆説的ですが、立派に信仰を守り通そうとする態度は、どれほど信仰と遠いことでしょう。
わたしはこんなに立派にやってきましたと誇るのは、信仰ではないのです。

今年は宗教改革500年です。
善き行いを重ねることによって救いに与ることができるのではなく、イエスを主と仰ぐ信仰によってのみ救われるという「信仰義認」の再発見が、宗教改革の出発点となったのです。



「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(14:28)
ガリラヤは、主イエスが最初に福音を宣べ伝えた場所です。
貧しい人に福音を告げ、病人を癒し、罪人に赦しを宣言したガリラヤに、わたしは先に戻っている。
つまずいたことをいつまでも悔やむのではなく、主イエスに出会い、主イエスの声を聞いた原点に戻って、やり直すことを求めておられるのです。

「わたしはつまずかない」と言い張る者に、「先にガリラヤへ行って、そこで待っている」と言われる主イエスを求めながら、歩んでいきましょう。
(2017年9月17日)


ホームページに戻る


PR

Copyright © 門司大里教会メッセージ : All rights reserved

「門司大里教会メッセージ」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]