忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

この杯を取りのけてください

マルコ福音書14章32~42
「イエスはひどく恐れて、もだえ始め」(14:33)

「恐れる」は、「驚いて震え上がる」という意味の言葉です。
「もだえる」は、「この先の見当がつかず困惑する」という言葉です。
これで間違いないのか、神の御心が分からないという困惑です。



「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(14:34)
私の魂は、死ぬほど悲しみに呑まれている。
「ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(14:34)
わたしが苦しみ、御心を求めて祈る姿を、あなたがたは証人として見届けてほしい。
そういう意味で、「目を覚ましていなさい。」と言われたのです。

十字架の出来事は、台本どおり淡々と進んでいったという、そんな話ではありません。
主イエスは、生身の人間として苦しみ抜かれた。
これがあなたの御心ですか、考え直していただけませんかと身を投げ出して祈る姿に、人間として歩まれた主イエスの苦悩が表れています。

「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:36)
「杯」とは、神が定めた、これからわたしが歩むべき道です。
「どうか取りのけてください。」
「しかし、わたしが欲することではなく、あなたが望まれることを。」

「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。」(14:37)

教会の立派な土台としてのペトロではなく、眠りこけているシモンに声をかけられた。
「目を覚ましていなさい。」と言ったのに、眠り込んでいる。
情けない奴だ、と言うべきところです。
しかし、「シモンよ」と言われた。
弱いシモン・ペトロを、受け入れておられるのです。
「心は燃えても、肉体は弱い。」(14:38)
「心は燃える」は、「思いがある方向に向いている」という言葉です。
決心はかたまっている、心は定まっている。
しかし、体が付いていかないのです。

「わたしはつまずきません。」と言ったペトロは、「目を覚ましていなさい。」と言われたのに、眠ってしまった。
あんな人は知らないと言って、逃げ出してしまった。

これは神から与えられた使命だと思って、取り組む。
しかし、ちょっとした障害があると、投げ出してしまう。
そんなわたしたちの弱さを分かったうえで、そんなお前たちのためにわたしは十字架にかかるのだと、主イエスは宣言されるのです。



わたしたちの弱い姿を、神はご存知です。
だから、弱さを取り繕う必要などありません。
すべて分かったうえで、受け入れてくださる神に従っていく。
何度も神に悪態をついたヨナが用いられたように、情けないわたしたちも用いられるのです。
(2017年9月24日)



ホームページに戻る


PR

Copyright © 門司大里教会メッセージ : All rights reserved

「門司大里教会メッセージ」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]