ヨハネ福音書18章12~27
アンナスによる尋問は非公式なもので、最高法院の召集も証人喚問もありません。
「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。」(18:20~21)
わたしは、はっきりと話した。
みんなが聞いていたのだから、すぐに証人は見つかるはずだ。
どうして証人を連れて来ないのか、というのです。
何の権限もない、引退したはずのアンナスが取り仕切っているこの裁判は、不法だ。証人を立てて、正しい手続きで裁判が行われていない。
処刑するという結論があって、ただ尋問の形をとっているだけだ。
下役の一人が平手で打ったことも不法だ。
裁判は正しい手続きを踏まないまま行われたと、ヨハネ福音書は証言しています。
その背後に、カイアファの言葉が響いています。
「一人の人間が民の代わりに死ぬ」(18:14)、
「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」(11:52)
カイアファ本人も気づかないまま、十字架の死の意味を伝えているのです。
「門番の女中」が言います。
「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」(18:17)
「まさか、あの人の弟子じゃありませんよね。」という感じで、「もちろん、違うよ。」という答えを期待する質問です。
だから、ペトロは
「違う」(18:17)と答えてしまったのです。
二人目の質問も同じです。
ところが三人目の男から、「一緒にいるのを見た」と言われ、「いや、違う。」と強く否定します。
そのとき、
「鶏が鳴いた。」(18:27)のです。
逃げ道を作られるとその場しのぎの態度で逃げ、問い詰められると強く否定する。
ペトロはほんの数時間前に、
「あなたのためなら命を捨てます。」(13:37)と言ったのです。
わたしたちの弱さが、ここに表れています。
人間は、何度も間違いを犯します。
しかし、再び立ち返ることを許されている。
そのことを先に召された方々が証言し、励ましてくださっています。
目の前の困難を恐れず、死の力や罪にからめ取られることなく、歩みなさいよ。
つまずいても立ち上がらせていただく、そういう歩みを許されていることを受けとめなさいよと、言ってくださる。
そのことを、心にとめたいと思います。
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