ヨハネ福音書18章1~11
ヨハネ福音書には、なぜ「ゲッセマネの祈り」がないのでしょうか。
受難から十字架の死、復活へと到る記事は、ヨハネ福音書と他の福音書で大きく違います。
マルコ福音書は人間としてこの世を生き、苦しみ抜かれた主イエスの姿を描いています。
ゲッセマネの祈りでは、
「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)
という言葉を記録しています。
そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)との、十字架上の叫びを描きます。
復活の朝も、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)と伝えています。
一方、ヨハネ福音書は、最後の晩餐の席での別れの言葉の形で、主イエスの言葉を伝えています。
捕らえられる場面では、主イエスの威厳ある姿に、兵士たちが圧倒されて倒れる姿が描かれています。
十字架の場面も、「成し遂げられた」(19:30)と言って、息を引き取られたと描きます。
ヨハネ福音書の記者は、目に見える姿を越えて、その背後にある真実を描き出そうとしているのです。
ヨハネ福音書は、繰り返し「ナザレのイエスとは、どういう存在か」を語ります。
「世の罪を取り除く神の小羊」、「世の光」、「命の水」、「命のパン」、「良い羊飼い」、「道であり、真理であり、命である」、「まことのぶどうの木」。
ここでも、
「だれを捜しているのか。」(18:4、18:7)と繰り返します。
わたしたちも問いかけられているのです。
兵士たちは
「ナザレのイエスだ。」(18:5、18:7)と答えます。
目に見える、生身の人を指す言い方です。
これに対して主イエスは、
「わたしである」(18:5、18:8)と言われます。
これは、「エゴー、エイミー」というギリシア語です。
「わたしは○○である」と定義することなどできない存在、つまり、わたしは神である、神の子である、と宣言しているのです。
ヨハネ福音書は、ナザレのイエスは神の子だと語ってきました。
ここでも「わたしである」という言葉で、「わたしは神である、神の子である、神から遣わされた者である。」と宣言しているのです。
権力によって捕らえられ、もっとも弱い姿で踏みにじられる、そこに御心が示されていることを悟りなさいと呼びかけているのです。
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