ヨハネ福音書17章20~26
「彼ら(弟子たち)が完全に一つになるためです。」(17:23)。
この言葉には、バラバラなわたしたちが一致結束する、そんなニュアンスがあります。
しかし、元のギリシア語はそうではありません。
「完全に」は、別のところでは「成し遂げる」と翻訳されています。
ここは受身形で、「一つであることにおいて、成し遂げさせていただく」と言いかえることができます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(15:5)
15章の「つながる」(とどまる)という言葉が、17章では「わたしの内にいる」とか「一つである」と表現されているのです。
主イエスと一つにつながっていることによって、豊かな実を結ぶ。
それぞれの使命を成し遂げさせていただく。
友と共に、隣人と共に、恵みを分かちあって生きる。そういう生き方ができるようにさせていただく、ということです。
「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」(17:21)という祈りには、主イエスの決意が込められています。
神様、あなたとわたしが一つである、その関係の中にわたしは弟子たちを置きますよ、という言葉です。
思い出してみてください。
その時主イエスは、どんな状態だったでしょうか。
捕らえようとする者たちを手引きするためにユダが出て行った、その時、あなたとわたしが一つであるところに弟子たちを置きます、と決意を込めて祈っておられるのです。
神と主イエスが一つである、その関係にわたしたちが招かれている。
そのことを感謝して、友のために生きる、隣人と共に生きる。
神のまこと、神の真実に生かされることによって、まったく新しい生き方ができるのです。
自分中心の生き方、誰かを踏みつけにする生き方から解放される、主イエスとつながっていることによってです。
わたしたちの信仰や努力によって、ではありません。
主イエスの真実につながる。そのことによって、神に従って生きる者とされる。そのために、主
イエスが祈っておられる。ユダに裏切られたあとに、です。
ペトロが、あの人をわたしは知らないという、その直前に、です。
あなたとわたしが一つであるところに、彼らを置きますと、主イエスが決意を込めて祈っておられる。
そのことを、受難節にあたって、しっかりと心に刻みたいと思います。
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