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お言葉どおりに

ルカ福音書1章26~38
ルカ福音書は、誕生物語で何を伝えようとしているのでしょうか。

弟子たちは、十字架で殺されたナザレ人イエスは、まぎれもなく神の子だったと語ったのです。
人間が神の子であるなどということはあってはならないこと、それは神を冒涜するものだ、これがユダヤの教えです。
また一方で、キリストは霊的な存在であって、生身の人間ではなかったと考える人たちがいました。
そうした人たちに向かって、誕生物語が書かれたのです。
神の子が、小さく低く身を屈めて、世に来られた。
名もない少女を母として、世に来られた、と。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。」(1:34)

「それは、どのようにわたしの身に起こるのでしょうか」と、マリアは尋ねます。
天使が答えます。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」(1:35)

聖霊とは、神の息吹です。
神の息吹が包むとき、不思議な出来事が起こる。
わたしたちも、神の力によって包まれています。
マリアは、心を開いて受け止めたのです。
天使が言います。
「神にできないことは何一つない。」(1:37)
神の言葉はすべて実現するという意味です。
これを受けて、マリアが言います。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)

「はしため」は、「奴隷」という言葉で、ここでは「神の言葉に聞き従う者です」という告白です。
そのために、このわたしが用いられますようにと、マリアは祈るのです。

「ダビデの王座をくださる」(1:32)を、権力を振るう王と読むと見当外れです。
神は、約束を忘れず、御子を世に送られたのです。

主イエスは、どういう歩みをされたでしょうか。
「ユダヤ人の王」と嘲られ、人々の罪を背負って十字架につけられる、その役割を引き受けて、世に来られたのです。
生身の人間として、わたしたちの苦しみと悲しみを知る者として過ごし、そして十字架につけられた。
信仰深く、気高いマリアに宿られたのではなく、片田舎の少女に宿られた。

神は最も弱い者に目を留め、用いられるのです。
御心のままにわたしを用いてください、と祈りたいものです。
(2016年12月11日)



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