ルカ福音書1章39~56
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)
「幸いだ、・・・」。
これは、山上の教えにつながる言い方です。
「
飢えた人を良い物で満たし」(1:53)も、山上の教えにつながっています。
「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」(6:21)
「マリアの讃歌」は、逆転を歌います。
「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」(1:48)
「はしため」は「奴隷」です。
これは、「わたしは主の言葉に聞き従う者です」という信仰告白です。
神は、小さな者に目を留め、小さな者を愛される。
小さな者を用いて、大きな役割を与えられる。
このメッセージは、山上の教えにつながっているのです。
マリア、エリサベト、そしてアブラハムの妻サラ、みんな神によって子ども与えられました。
命は、わたしたちのものではない。
わたしたちに与えられる命は、神から与えられたものだ。
そういう信仰を歌っているのです。
「思い上がる者を打ち散らし」(1:51)、
「権力ある者をその座から引き降ろし」(1:52)、
「富める者を空腹のまま追い返されます。」(1:53)
ちょっと怖い言葉ですが、ハンナの歌(サムエル記上2章)を下敷きにしています。
わたしたちは、今の暮らしを自分の努力で手に入れたと思っています。
でも、そんなわたしたちに、神は宣言されます。
命も、あなたが手にしている幸せも、神から与えられたものだ。
今のままでいいと思ってはならない。
目の前の状態を根本から捉え直してみなさいと語っているのです。
「その憐れみは代々に限りなく」(1:50)
この「憐れみ」という言葉は、「良きサマリア人のたとえ」(ルカ10章)で使われています。
追いはぎに襲われて丸裸にされ、痛めつけられた人が倒れていた。
祭司やレビ人は通り過ぎていったが、差別されているサマリア人が通りかかり、「その人を見て憐れに思い、近寄って」(10:33)介抱した。
ヘブライ語で「憐れみ」はラハミーム、女性の子宮につながる言葉です。
誰かが倒れているのを見ても、通り過ぎてしまうのがわたしたちです。
しかし、神様は腹の底から気の毒に思い、わたしたちに近づいて来られる。
そうマリアは歌うのです。
(2016年12月18日)
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