マルコ福音書6章45~56
「弟子たちを強いて舟に乗せ」(6:45)
弟子たちが望んだ訳ではなく、「強いて」です。
「向こう岸」(6:45)は、今の暮らしの対極です。
「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」(創世記12:1)
今までの生き方を捨て、真の生き方を求めて旅立つ。
これが「向こう岸」へ向かって
「強いて舟に乗せ」(6:45)られる、ということです。
舟は湖の真ん中に出ていて、時は
「夕方」(6:47)です。
「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」(6:48)
これは主イエスが知らん顔で通り過ぎていく、という意味ではありません。
「通り過ぎる」は、神が現れてくださったという慣用表現です。
「あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」(出エジプト記33:23)
神の姿を肉眼で見ることはできない。
しかし、その後ろ姿、神の力が確かに働いた痕跡を見ることはできるのです。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:8)
風がどこから吹いてくるか分からなくても、風が吹いていることは分かる。
同じように、神の姿を見ることはできないが、神の力が働いていることは分かるはず、というのです。
「幽霊だと思い」(6:49)恐怖の叫びをあげる弟子たちに、主イエスが呼びかけます。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。(6:50)
「わたしだ」(エゴー・エイミー)は、「わたしはここにいる、わたしこそ神である」という宣言です。
ところでこの場面は、創世記の冒頭に重なっています。
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2)
混沌とした世界、底なしの海を闇が覆っている。
その世界を、神の力が支配し、神の息吹(風)が吹き渡っている。
そして、
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1:3)
「光あれ」は太陽が造られたということではありません。
混沌とした闇の世に、生命と救いの希望が与えられているということです。
「湖の上で逆風にあう舟」は、闇のような世界で波に翻弄され、風に行く手を阻まれるわたしたちの姿を示しています。
逆風が吹き、悪の力が声高に叫んでいます。
しかし、
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(6:50)と主イエスが呼びかけてくださる。
そのことを覚えて、歩んでいきましょう。
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