マルコ福音書7章1~23
「弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいる」(7:2)
子どもに「食事の前には手を洗いなさい」と教えるのは、衛生上の理由からです。
しかし、ここで弟子たちが非難されているのは、
「昔の人の言い伝え」(7:3)を破ったからです。
「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。」(7:4)
人混みではどんな人と触れ合うか分からない。
異邦人がいるし、ユダヤ人であっても罪人、汚れた人がいる。
雑踏でそういう人と接触すると、汚れる。
だから、外から帰ってくるたびに身を清めよ、とされたのです。
ここで主イエスは、するどく反撃なさいます。
「念入りに手を洗い、器を清めよ」と、あなたがたは教えている。
だが、
「体から出て来るものこそ、人を汚す」(7:20)
どんなに身を清めようが、お前の体から出てトイレに落ちる物こそ汚れている。
そんなことさえ気がつかないのか、と皮肉っているのです。
使徒言行録に、示唆深い話があります。コルネリウスというローマの百人隊長が、ペトロを招いて教えを受けよ、という幻を見ます。
同じ頃、ペトロも幻を見ます。
「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。
その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。」(10:11~12)
そこに「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」(10:13)と声が聞こえます。
「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」(10:14)とペトロは言います。
すると、また声が聞こえます。
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(10:15)
不思議に思っているところへ、使いが訪ねてきます。
ローマの百人隊長のところへなど、ペトロは行きたくなかったでしょう。
しかし、主の言葉に従って出かけます。
そして、コルネリウスが主を受け入れたので、彼とその家族に洗礼を授けます。
主イエスとずっと一緒にいたペトロでさえ、汚れたものを口にするなという掟に縛られていたことが分かります。
「神が清めた物を、清くないなどと・・・言ってはならない。」
これは創世記1章につながっています。
「神はこれを見て、良しとされた。」
すべての被造物は、神が祝福されたものなのです。
五千人にパンと魚を分け与える物語があります。
群衆の中には汚れた人や病人がおり、異邦人もいたかもしれません。
魚はおそらく干物です。
主イエスは誰が作ったか問いただすことなく、感謝の祈りを捧げ、パンと魚を分かちあわれたのです。
どの宗教も、「聖なるもの」を大切にします。
でも、「汚れたものを遠ざける」ことが差別を生み、人を排除することにつながります。
日本の社会は、個性を消し去り、一色に塗りつぶす社会です。
わたしたち自身も、気づかないまま何かに縛られていないか、深く吟味する必要があるのです。
PR