マルコ福音書7章24~30
ティルスはシリア州に属しており、シリア州はガリラヤに接していました。
ティルスはおおいに栄えた港町ですが、畑がないために食糧を周辺の地域から調達していました。
農作物は都市に運ばれ、貧しい人々は飢えるしかなかったのです。
「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」(7: 26)
フェニキア人は、海上交易によって栄えた民です。
「シリア・フェニキアの生まれ」は、シリアに住むフェニキア人という意味です。
ギリシア語を話し、ガリラヤの人々とは文化や宗教が違う人だったのです。
「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(7:27)
チビの犬なんぞに、大切なパンをやるわけにいかない。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。」(7:27)
貧しい人々が飢えに苦しむのは、お前たちが食糧を奪っているからだと、冷たく言われたのです。
しかし、女性は食い下がります。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(7:28)
「お言葉ですが、軽んじられている小犬も忘れないでください」と訴えたのです。
ティルスの人間だからと拒絶なさるけれど、悪霊につかれた娘をかかえて、わたしも苦しんでいるのです。
「汚れた霊に取りつかれた」(7:25)とは、治療の見込みがない病い、あるいは心の病い、発作を起こす病いです。
福音書の奇跡で目立つのは、病人の癒し、悪霊を追い出す話です。
罪を犯したからその罰を受けているのだと、病人は軽んじられ苦しみました。
「悪霊を追い出す」ことは、福音書の大切なテーマなのです。
主イエスは病いを癒やされただけでなく、「罪人」とレッテルを貼られた人に、「あなたは神に祝福されている」と宣言なさったのです。
では今日の箇所では、どうしてこんなに冷淡なのでしょうか。
これは、ティルスに対する怒りを反映しているのです。
ところが、女性が必死に食い下がるなかで、主イエスは気づきます。
悪霊に取りつかれた娘を抱えて、この人も苦しんでいる。
このままにしておけない。
「それほど言うなら、よろしい。」(7:29)
「その言葉で十分だ」という意味です。
貧しいガリラヤの人々が食卓に招かれるのであれば、差別に苦しむわたしたちも招かれて当然ではありませんか、と食い下がる女性の訴えを聞いて、あなたの言う通りだと、態度を変えられたのです。
わたしたちは、いろんなことで人にレッテルを貼って、距離をおこうとします。
しかし、訴えに耳を傾けながら、心を開いていくことが大切だと、今日の箇所は教えています。
すべての人を、神は祝福し、愛しておられるのですから・・・。
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