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ヨハネ福音書7章25~36
仮庵祭が半ばになったとき、主イエスは神殿で教え始められました。
人々はこれに驚いて、指導者たちがまさかメシアだと認めるはずがないと、不審に思います。
「この人はメシアなのか」という問いが、ここで初めて出てくるのです。
これに対して主イエスは、
「わたしは自分勝手に来たのではない。」(7:28)と言われます。
わたしは神様から遣わされたのだということです。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。
それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。」(7:33~34)
とは、どういう意味でしょうか。
わたしは、あなた方に捕らえられ、十字架に架けられて殺される。
しかし、あなた方はその意味を決して理解できないだろうというのです。
「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(7:34)
と言われたのに、最後の晩餐のあと、
「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(14:3)と言われ、
さらに
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(14:6)
と言われます。
弟子たちでさえ、主イエスの十字架への道を理解することができませんでした。
しかし、十字架と復活の出来事のあと、はじめて目が開かれたのです。
「罪」とは、旧約では「神の意志を拒否すること」、
新約では「的外れ」を意味します。
主イエスの言葉を受けとめ、十字架の主イエスを見上げるとき、
自分に固執し隣人から目を背けて「的外れ」の生き方をしてきたことに、はじめて気づきます。
主イエスは、わたしこそ父なる神のもとへ至る「道」であると宣言されます。
わたしの言葉、わたしの振る舞いをしっかり受けとめれば、まことの平安が与えられる。
私に従ってきなさいと、招いておられるのです。
(2015年1月25日)
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