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渇いている人はだれでも

ヨハネ福音書7章37~39

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)

という言葉が語られたのは、仮庵の祭のときです。

この祭は、奴隷であったエジプトの地から導き出され、
40年の荒野の旅において水とパンを与えられ、
約束の地に導かれたことを想い起こす祭です。




ヨハネ福音書で語られる「永遠の命に至る水」(7:13)、「命のパン」(6:48)は、
この出エジプトの出来事を背景にしています。

また、「世の光」(8:12)は、困難のただなかにいる者に真の希望を与え、
約束の地に導くという意味を含んでいます。

イザヤ書の
「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える」(44:3)から、

「水を注ぐ」ことが「主の霊を注いで祝福を与える」ことであると分かります。

またエゼキエル書には、
「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」(47:9)
という言葉があります。

バビロンで捕囚として暮らす民に、
エルサレムの都が陥落し神殿が破壊されたという報せが届き、
絶望する民に語られた預言です。

こうした旧約聖書を背景にして、ヨハネ福音書は
「ナザレのイエスこそ、すべてのものを生き返らせる、活ける水を与える方だ」
と語っているのです。

「そのときは昼もなければ、夜もなく 夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で」(ゼカリヤ書14:7~8)

は、都が破壊され家々が略奪され真っ暗闇のときを迎えるが、
必ず希望が与えられると告げています。



ヨハネ福音書は、ユダヤ教の共同体から排除され、
ローマ帝国の迫害が始まった紀元90年代に、
ナザレのイエスを主と仰ぐ人々に向けて編集されました。

こうした苦難と試練のなかで呻吟する人々に向かって、
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(8:37)
と語りかけられているのです。
(2015年2月1日)

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